記憶と演算の機能を併せ持つ革新的スピン素子を開発
記憶と演算の機能を併せ持つ革新的スピン素子を開発
~ 反強磁性体の新機能を利用した省エネAIチップ技術基盤 ~
発表のポイント
- AIの普及に伴い省エネハードウェア技術の需要が高まっています。
- マクロには磁力を持たないが電気的には磁石と似た性質を示す「ノンコリニア反強磁性体」(注1)と磁石の材料である強磁性体の積層構造での「双方向制御」を実現し、これを利用した記憶と演算の機能を併せ持つ革新的スピン素子の原理実証に成功しました。
- 多大な電力消費が課題の、AI処理で多く用いる乗算の結果を順次加算する積和演算を、高効率に処理する省エネAIチップなどへの展開が期待されます。
概要
AI技術の普及に伴い、AI計算に適したハードウェア(AIチップ(注2))の重要性が高まっています。記憶と演算の機能を統合した素子や、人間の脳の構成要素を模倣した素子はそのための有望技術です。
東北大学電気通信研究所のユン・ジュヨン研究員と深見俊輔教授、同大学材料科学高等研究所(WPI-AIMR)のハン・ジャーハオ准教授らからなる研究チームは、近年注目されている磁性材料「ノンコリニア反強磁性体」に特有の性質を利用した新機能スピントロニクス(注3)素子を開発しました。この素子はノンコリニア反強磁性体と強磁性体の積層構造からなり、ある電流領域では前者で後者を、別の電流領域では後者で前者を制御できる(「双方向制御」が可能)という新規性を有しています。研究チームはこの特性を利用し、入力信号で書き込まれるアナログ情報の量や符号をユーザーが事前にプログラムできる、従来にない素子機能を原理実証しました。これはAI処理で頻繁に行われ、多大な電力が消費されている積和演算などに応用できます。
今回示された「双方向制御」は、近年解明が進んでいるノンコリニア反強磁性体の特性を巧みに利用したものであり、またAI技術の省エネ化の可能性を提供するものです。今後の研究開発による素子性能の向上などにより、計算性能と省エネ性を兼ね備えた次世代コンピューティング技術へと発展していくことが期待されます。
本研究成果は、2025年2月5日(英国時間)に科学誌Nature Communicationsに掲載されました。
詳細な説明
研究の背景
人間の脳の動作に着想を得た機械学習から始まり、生成AI、エッジAIなど、AI技術が急速に進化しています。一方でAIの普及により情報機器が消費する電力が著しく増大しており、深刻な社会問題となっています。この課題を解決するためには、AI計算を高いエネルギー効率で処理するハードウェア(AIチップ)の実現が鍵を握ります。例えば、現在AI処理に用いられている汎用型の半導体チップでは演算と記憶が別の場所で行われており、ここでの信号の送受信に多くの電力を要しています。従って演算と記憶の機能が統合された素子は省エネAIチップへの究極の解決策となります。また、AIのモデルである人間の脳は情報をアナログ的に処理していることから、アナログ情報を扱える素子の部分的な利用も有望視されます。
電子の電気的性質と磁気的性質を同時利用するスピントロニクス分野では、磁性体の磁気構造の電気的制御に関する研究が活発に行われています。様々な原理に立脚した素子が実現されていますが、その全てにおいて、制御される磁性材料(受け手)と、制御の駆動力を供給する材料(出し手)は明確に異なっており、製造完了時点でどのような入力を与えれば受け手に何が起こるかは明確に定まっていました。例えば正電流の印加で「0→1」、負電流の印加で「1→0」というように情報を書き込めるのが典型的な素子の動作様式であり(図1(a))、これは不揮発性メモリの一種である磁気抵抗メモリ(Magnetoresistive Random Access Memory: MRAM)に産業利用されています。
近年のスピントロニクス分野では「ノンコリニア反強磁性体」と呼ばれる磁性材料が注目されています。この磁性体は、磁気スピンホール効果(注4)と呼ばれる現象により近接する磁性層を制御する駆動力を提供できます。加えてノンコリニア反強磁性体へのスピン流(注5)の注入によりその磁気構造を駆動することもできます。これまでこの「出し手」と「受け手」の両方の機能が独立に研究されていました。
今回の取り組み
今回、東北大学のユン・ジュヨン博士研究員、ハン・ジャーハオ准教授、深見俊輔教授らは、物質・材料研究機構の竹内祐太朗研究員、及び日本原子力研究開発機構の家田淳一研究主幹らと共同で、量産型MRAMを構成する強磁性材料のコバルト鉄ホウ素(CoFeB)とノンコリニア反強磁性材料であるマンガンとスズの化合物Mn3Snを積層させた構造にて、双方が受け手と出し手の両方の機能を果たす「双方向制御」を実現しました。そしてこれに基づき、強磁性材料でノンコリニア反強磁性体を制御して情報を「記憶」し、ノンコリニア反強磁性材料で強磁性材料を制御することで「演算」を行う、記憶と演算が統合された素子を原理実証しました。
図1(b)に今回開発した素子の動作が模式的に示されています。(i) ある第1の範囲内の電流を流すと、Mn3Sn層の磁気スピンホール効果によってCoFeB層の磁化が反転し、それに対応付けられた0または1の情報が書き込まれます。(ii) それより大きな第2の範囲内の電流を印加すると、今度はCoFeBからのスピン流によってMn3Snの磁気構造が反転します。これによってMn3Snの性質が逆転します。(iii) ここに再び第1の範囲の電流を流すと今回は(i)の時とは逆方向にCoFeB層の磁化が応答し、これにより逆の情報が書き込まれます。以上のプロセスではCoFeBとMn3Snが相互に制御し合っており、これによって(i)と(iii)では全く同じ入力を与えているにも関わらず、(ii)を挟むことで動作が逆転しています。
本研究ではここからさらに発展させ、ノンコリニア反強磁性体の状態によりCoFeB内で制御できる磁化の量、すなわち書き込める情報量を制御できることを示しました。図2に原理実証の実験結果が示されています。縦軸はCoFeBの反転した磁化の成分を反映しており、CoFeBによってMn3Snの状態を制御することで、Mn3Snによって制御できるCoFeBの磁化の量を変えられていることを示しています。
この技術はAI処理における人間の脳の働きを模倣したニューラルネットワークの基本動作の一つである積和演算に応用できます。具体的には、シナプス荷重値(アナログ値)をMn3Snに記憶しておき、前段ニューロンからの入力信号と予め記憶されているシナプス荷重値の積に応じてCoFeBの磁化を反転させることで積和演算の結果を得るという形で実現されます。すなわちこれは、記憶と演算が統合された積和演算の基本素子に他ならず、省エネAIチップの構成要素となり得るものです。
今後の展開
AI社会の今後の発展に向けて、AIチップを省エネ化する回路・素子技術の開発は極めて重要です。本研究は、近年研究が進展するノンコリニア反強磁性体の持つ、受け手と出し手の両方の機能を一つの素子にて利用して双方向制御を実現することで、従来にないスピントロニクス素子を実現したものであり、AIチップのニーズとも整合しています。今後動作電流の低減や出力信号の増大などに関連した研究開発が進展することで、省エネAIチップとしての実用化に向けた道が開けていくものと期待されます。

図1. (a)従来の素子の動作方式。印加電流の符号(正または負)で強磁性層に書き込まれる情報(1または0)が一意に決まる。(b)今回開発した「双方向制御」が可能な素子の動作方式。強磁性層はCoFeB、ノンコリニア反強磁性層はMn3Snで構成される。電流範囲①ではノンコリニア反強磁性層が強磁性層を制御し、電流範囲②では強磁性層がノンコリニア反強磁性層を制御する。

図2. 「双方向制御」を利用することで得られる新機能の原理実証実験結果。強磁性層によりノンコリニア反強磁性層の状態を制御するセット電流の大きさにより、ノンコリニア反強磁性層による強磁性層の制御の度合いをアナログ的に変化させられる。またセット電流の符号によって、強磁性層に書き込める情報の符号を変えることもできる。これを利用すると興奮性シナプス、抑制性シナプスの機能を模擬できる。
謝辞
本研究は、日本学術振興会・科学研究費助成事業(JP19H05622, JP21J23061, JP22KF0035, JP22K14558, JP24K16999, JP24K22949, JP24H00039, JP24H02235)、文部科学省次世代X-NICS半導体創生拠点形成事業 (JPJ011438)、池谷科学技術振興財団研究助成(0331108-A)、カシオ科学振興財団(39-11, 40-4)、東北大学スピントロニクス国際共同大学院などの支援の下で行われたものです。また本論文は『東北大学2024年度オープンアクセス推進のためのAPC支援事業』の支援を受けて出版されます。
用語解説
- 注1. ノンコリニア反強磁性体
- 反強磁性体は、結晶内で隣り合う原子のスピン(電子が持つ磁石の性質)同士が異なる方向を向くことで打ち消しあい、見かけ上は全体に磁気を持たないようにみえる物質。一般的な反強磁性体は隣り合うスピンが正反対の向きに共線的(コリニア)に並ぶ性質を持ち、コリニア反強磁性体と呼ばれる。これに対してスピン同士が非共線的(ノンコリニア)に並んで全体の磁力を打ち消しあっている磁性体をノンコリニア反強磁性体と呼ぶ。
- 注2. AIチップ
- AI計算に特化して設計された半導体チップ。AI技術の普及とそれに伴う情報技術の消費電力の増大が深刻化する中、省エネAIチップ開発の重要性が高まっている。NVIDIAのジェンスン・ファンCEOは世界最大のテクノロジー見本市「CES2025」でAIチップを基盤とするシステムの構築が今後の情報社会の持続的な発展の鍵になると強調した。
- 注3. スピントロニクス
- 電子の持つ電気的性質(電荷)と磁気的性質(スピン)を同時に利用することで発現する物理現象を明らかにし、工学的に利用することを目指す学術分野。磁性体のスピンの向き(上・下)で情報を検出あるいは記録する、磁気センサーや磁気抵抗ランダムアクセスメモリー(MRAM)などの応用が代表的。
- 注4. 磁気スピンホール効果
- 物質に電流を流すと、電流方向に直交する方向にスピンの流れ(スピン流(注5))が生成される。この効果をスピンホール効果と言う。物質が磁性を有し、生成されるスピンの向きが磁性体の磁気状態に依存する場合を特に磁気スピンホール効果と言う。
- 注5. スピン流
- スピン角運動量の流れ。スピン流は様々な起源で生じるが、本研究で利用したスピン流は強磁性体の磁化によって一方向に偏極されたスピンの流れを意味する。伝導電子のスピンは磁性体中では磁気モーメントと相互作用し、磁気状態を制御する駆動力となる。
論文情報
タイトル: | “Electrical mutual switching in a noncollinear-antiferromagnetic–ferromagnetic heterostructure” (ノンコリニア反強磁性–強磁性異種接合における電気的相互反転) |
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著者: | Ju-Young Yoon, Yutaro Takeuchi, Ryota Takechi, Jiahao Han, Tomohiro Uchimura, Yuta Yamane, Shun Kanai, Jun’ichi Ieda, Hideo Ohno, and Shunsuke Fukami |
掲載誌: | Nature Communications |
DOI: | 10.1038/s41467-025-56157-6![]() |
問い合わせ先
研究に関すること
東北大学電気通信研究所
教授 深見 俊輔(研究者プロフィール)
(兼)東北大学大学院工学研究科電子工学専攻
(兼)東北大学先端スピントロニクス研究開発センター (CSIS)
(兼)東北大学国際集積エレクトロニクス研究開発センター (CIES)
(兼)東北大学材料科学高等研究所 (WPI-AIMR)
(兼)公益財団法人稲盛科学研究機構 (InaRIS)
Tel: | 022-217-5555 |
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E-mail: | s-fukami@tohoku.ac.jp |
報道に関すること
東北大学電気通信研究所 総務係
Tel: | 022-217-5420 |
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E-mail: | riec-somu@grp.tohoku.ac.jp |