ナノ磁石の磁気エネルギー地形の測量に成功

2022年08月18日

国立大学法人東北大学
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構

ナノ磁石の磁気エネルギー地形の測量に成功

~高性能疑似量子コンピューター開発に向けた数学的基盤を確立~

発表のポイント

  • 確率的に振る舞う新規スピントロニクス素子を用いて、ナノメートルサイズの磁石(ナノ磁石)に関する未解決問題を実験で初めて検証
  • ナノ磁石の外場(磁場や電流)下の動作を記述する数式を解明
  • Society5.0注1)で活躍が期待される、省電力で複雑な計算問題を処理するスピントロニクス確率論的コンピューターや超低消費電力半導体の開発に向けた重要な基盤を確立

概要

東北大学電気通信研究所の舩津拓也博士前期課程学生(当時)、金井駿助教、深見俊輔教授、大野英男教授(現、総長)及び日本原子力研究開発機構の家田淳一研究主幹は、ナノ磁石の「磁気エネルギー地形」を世界で初めて実験的に測定することに成功しました。

電子の持つ電気的性質と磁気的性質(スピン)の同時利用に立脚する「スピントロニクス」注2)技術は、既に商品化されている超低消費電力の不揮発性メモリー注3)に加え、量子コンピューターや確率論的コンピューター注4)など、不確定性や確率性を積極的に利用した従来にないコンピューターを実現するための原理としても有望視されています。研究グループは、スピントロニクス確率論的コンピューターで用いられる超常磁性磁気トンネル接合注3)を用いて、磁場や電流による磁気エネルギーの変化を支配する「反転指数」と呼ぶ変数を実験で決定し、磁気エネルギーの磁場や電流依存性を正確に予測できる「磁気エネルギー地形」の実測に成功しました。超常磁性磁気トンネル接合素子を用いた確率論的コンピューターの研究開発を加速することは勿論のこと、ナノ磁石一般に成立する指数を決定したことで、不揮発性磁気トンネル接合を用いた磁気抵抗ランダムアクセスメモリー(MRAM)注3)の研究開発における特性評価への適用なども期待されます。加えて今回の観測結果は非線形解析理論の一種である「分岐理論」で統一的に理解できることも明らかになりました。これは今後の基礎数学・物理学理論研究を検証するプラットフォームとしてのスピントロニクス素子の利用可能性も示唆するものです。

本研究成果は2022年7月14日(英国時間)に英国の科学誌「Nature Communications」でオンライン公開されました。

詳細な説明

背景 ― ナノ磁石の磁気エネルギー地形 ―

机の上に立てて置いてある花瓶を、花瓶の上の方を押して横向きに倒すとします。力を掛けると花瓶が傾き、ある程度倒れたところからは花瓶は力を加えなくとも自然に机の上に倒れていきます。花瓶の角度を横軸に、花瓶の位置エネルギーを縦軸にとると図1のようになります。立てて置いてある状態(図1(b)左端)でエネルギーは極小で、瓶を倒すと位置エネルギーが上昇するためエネルギーが高くなります。花瓶を倒すのに必要なエネルギーは、初期状態がエネルギーの最大値を越えるためのエネルギーであり、これをエネルギー障壁といいます。花瓶を倒すのに必要な力の大きさは、力を加える方向、瓶の材質や形状、瓶の中に入っている液体など様々な条件で異なります。

更に左から風が吹いている場合、花瓶は右向きに倒れやすくなりますが、これは風によって実効的なエネルギーが変化したためと考えることができます(図1(c))。様々な風速に対して実効的なエネルギーを表すにはどのようにしたらよいでしょうか?図1(d)のように、横軸に花瓶の倒れた角度、縦軸に風速を取り、花瓶のエネルギーを等高線で表すことによって、どの風速の時にどれだけの力を加えたらよいかなどを詳細に知ることができます。これをエネルギー地形(ランドスケープ)と呼び、状態の安定性を記述するのに大変役立ちます。


図1(a)机の上に載っている花瓶を指で押す様子。(b)花瓶の角度に対する位置エネルギーの例。(c)風が吹いた時の花瓶の角度に対する実効的なエネルギーの例。(d)エネルギー地形の一例

図1(b)や(c)で示したような、エネルギー障壁で隔てられた安定状態の物理モデルは、非常に単純でありながら身の回りの多くの物理現象を説明することが可能です。磁性体の磁化方向(磁石のS→Nの方向)と磁気エネルギーの関係もその一つです(図2)。ハードディスクや不揮発性磁気抵抗ランダムアクセスメモリー(MRAM)注3)は、磁性体の二つの安定な磁化方向を「0」と「1」の二値状態(ビット)に対応させ情報として蓄えます。磁場や電流の印加により、磁化方向に「力」をかけることができ、磁気エネルギー障壁を超える磁場や電流を印加することで磁化方向を反転することができます。これまでナノ磁石の研究はエネルギー障壁を十分に大きく設計する不揮発性情報記憶媒体注3)としての応用が主でしたが、近年ではエネルギー障壁を意図的に下げ、熱によって確率的に磁化反転を引き起こす超常磁性体を利用した、確率論的コンピューター注4)の実現も期待されています。確率論的コンピューターは古典コンピューターが苦手とする最適化問題などを、室温で効率的に解けるものと期待されており、その原理実証(『室温動作スピントロニクス素子を用いて量子アニーリングマシンの機能を実現』)や、その高速化(『スピントロニクス疑似量子ビットを従来比100倍超に高速化』)に向けた素子技術の開発が報告されています。

成果 ― ナノ磁石の反転指数の解明 ―

今回、東北大学と日本原子力研究開発機構の研究チームは、電気通信研究所附属ナノ・スピン実験施設の設備を用いて、ナノスケールの超常磁性磁気トンネル接合を作製し、磁場と電流下にあるナノ磁石の磁気エネルギー形状を実験的に明らかにすることに世界で初めて成功しました。磁場と電流による磁化反転では、それぞれエネルギー障壁が異なり、これは磁化に印加される力の方向が異なることに起因します。磁場や電流が印加された際の磁気エネルギーの形状の候補として、例えば図2(b)の上下のような二種類のモデルが理論的に提案されていました。これらは「反転指数」と呼ばれる一つの変数で区別することができ、反転指数が2の時には磁化が垂直下向きと上向きを向いた時にエネルギーが極小となり、指数が1.5の時には完全に垂直下向きから少し傾いた方向を向いた時と、完全に下向きを向いた時にエネルギーが極小をとります。図2(b)では反転指数が磁気エネルギー形状へ与える影響はわずかに感じられるかもしれませんが、指数の違いが磁性体メモリー素子における反転磁場や反転電流、確率論的コンピューティングにおける制御電流を「指数関数的に」支配するため、この違いは応用上非常に重要です。ハードディスクやMRAMが既に我々の実生活に応用されている一方で、反転指数の測定が極めて困難であることに起因して、実験的にこの指数を決めた例はなく、これまで反転指数に対する統一的理解はなされていませんでした。


図2 (a)磁性体の磁化方向とエネルギー障壁の模式図。磁化方向に応じてビットの「0」と「1」が割り振られ、その間にエネルギー障壁がある。(b)磁場や電流により磁化角度を反転する様子と、その際の磁気エネルギーの形状。

研究グループは、図3(a)に示された直径33ナノメートルの超常磁性磁気トンネル接合を作製し、エネルギー極小が消失する磁場及び電流を調べる実験手法と、磁場及び電流を印加した際のエネルギー障壁を調べる実験手法により、反転指数を実験で決定することに成功しました。前者の測定手法はエネルギー障壁が大きい磁気メモリー向けの磁性体に主に用いられ、後者の測定手法はエネルギー障壁が小さい超常磁性体に適用することができます。これらの測定手法を一つの素子に対して初めて組み合わせたことで、磁気エネルギーの磁化角度依存性が磁場及び電流により変化する様子が詳細に明らかになりました。特に、図2(b)のような平面のグラフに磁場や電流の軸を導入することで、エネルギーを等高線として表す「エネルギー地形」を測定し、ここから反転指数を明らかにしました。実際の素子で測定した反転指数を図3(b)に示します。素子に印加する電圧を変えるとエネルギー障壁が変化し、反転指数が2~1.5の間で変化することを明らかにしました。図3(b)で印加電圧を増やす程、エネルギー障壁が大きくなるため不揮発性磁気メモリー向けの素子となり、印加電圧を小さくする程エネルギー障壁を低減させた確率コンピューティング向け素子となります。反転指数は一定ではなく、エネルギー障壁が異なる素子A及び素子Bを用いて反転指数を調べることで、不揮発性MRAM向けのナノ磁石においては反転指数が2(図2(b)上)、確率論的コンピューティング向けのナノ磁石においては反転指数が1.5(図2(b)下)となることが分かりました。また、図より磁場と電流による反転指数が常にほぼ同じ値になることが分かります。これは磁化方向にとって、磁場と電流がエネルギー障壁に対して同質の作用を及ぼすことを意味しています。


図3 (a)作製した磁気トンネル接合の模式図。(b)反転指数の印加電圧依存性

成果の意義と今後の展望

磁場下の磁気エネルギー地形は1930年代から研究されてきました。本研究は測定、素子加工技術の進展を利用し、スピントロニクス素子を用いることにより、磁性体の研究に於いて長年明らかにされてこなかった反転指数の実験的決定に成功し、磁場と電流の役割を世界で初めて実験的に明らかにしました。本成果により、例えば不揮発性MRAMの制御の高効率化や、その反転機構をより詳細に解明することが可能となりました。また、超常磁性体を用いたスピントロニクス確率論的コンピューティングにおいては、その設計において今回の数学的な表式の確立は必要不可欠であり、今後の開発に重要な役割を果たします。応用研究にとって非常に有意義な研究結果が得られたことに加え、素子の反転指数は数学や物理学の理論分野である「分岐理論」によって解釈可能であることも新たに分かりました。分岐理論によって、沢山の蛍が同じ周期で光る同期現象や、成長とともにシマウマや熱帯魚の体に現れる縞模様などの発生現象、連結振り子が初期状態によって大きく運動の様子を変えるカオス現象などが説明されます。分岐理論によれば、図3の素子Aのように反転指数が一つの素子で変化する現象は珍しく、様々な理論研究を実証する舞台としてのスピントロニクス素子の利用も期待されます。

本研究は、研究構想、実験研究、理論構築と論文執筆において東北大学が中心的な役割を果たし、原子力研究開発機構は理論構築の補助を担当しました。全ての著者が得られた成果について検討を行いました。科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業さきがけ「不確定性スピントロニクス素子」(研究代表者:金井 駿)JPMJPR21B2、日本学術振興会 科学研究費助成事業 基盤研究(S)19H05622、戦略的創造研究推進事業 CREST「スピンエッジコンピューティングハードウェア基盤」(研究代表者:佐藤 茂雄)JPMJCR19K3などの支援を受けて行われたものです。

用語解説
注1)Society5.0
日本の「第5期科学技術基本計画」で政府が掲げた、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)。狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)に続く。参考:Society 5.0(内閣府)新しいタブで開きます
注2)スピントロニクス
電子の持つ電気的性質(電荷)と磁気的性質(スピン)を同時に利用することで発現する物理現象を明らかにし、工学的に利用することを目指す学術分野。スピンの持つ量子的性質はナノメートル(10のマイナス9乗メートル)のスケールで顕著に見られ、微細加工技術の進展とともに様々な関連現象が発見されてきた。例えば従来は不可能であった磁気的性質や磁化方向の電気的な検出や制御(スピントルク磁化反転)、電気伝導特性の磁場や磁化による制御などが可能となり、現在も様々な現象が発見され続けている。
注3)磁気トンネル接合、不揮発性メモリー
磁気トンネル接合とは、二層の強磁性体でナノメートル程度の膜厚の絶縁体を挟んだ積層膜構造を指す。磁気トンネル接合を記憶素子として用いることでMRAMと呼ばれる不揮発性記憶素子が実現できる。情報の書き換えに上述のスピントルク磁化反転を利用するSTT-MRAMは、2018年頃から大手企業で量産が始まっている。
注4)確率論的コンピューター
R.P.ファインマンが提唱したことで知られる、自然現象を効率良く再現するためのコンピューターの一つ。確率論的コンピューターでは短時間で出力信号が確率的に変化し、かつ各ビットを電気的に相関させられる確率ビット(Pビット)が情報処理の基本単位となる。同時に2つの不確定な情報の重ね合わせ状態を持ち、かつビット間でもつれあい(相関状態)を形成できる量子ビット(Qビット)とは本質的に異なるが、一定の類似性があることから、量子コンピューターと並んで非従来型のコンピューターとして注目されている。
注5)超常磁性
強磁性体でありながら常磁性的性質を示す磁性材料・素子。磁化方向間のエネルギー障壁が20kBT(kBはボルツマン定数、Tは絶対温度。室温で8.3×10-20 ジュール)程度を下回ると、熱の影響により、2つの安定な磁化方向間を強磁性体の磁化方向が1秒以下で自然に行き来するようになる。超常磁性体を磁気トンネル接合注3)に用い、これらを電気的に接合することにより、確率ビット注4)として動作させることが可能である。

論文情報

Title: “Local bifurcation with spin-transfer torque in superparamagnetic tunnel junctions”
(超常磁性トンネル接合におけるスピン移行トルクの局所分岐)
Authors: Takuya Funatsu, Shun Kanai*, Jun’ichi Ieda, Shunsuke Fukami, and Hideo Ohno
Journal: Nature Communications
DOI: 10.1038/s41467-022-31788-1新しいタブで開きます

問い合わせ先

研究に関すること

東北大学電気通信研究所
助教 金井 駿

Tel: 022-217-5555
E-mail: skanai@tohoku.ac.jp

報道に関すること

東北大学電気通信研究所 総務係

Tel: 022-217-5420
E-mail: riec-somu@grp.tohoku.ac.jp

日本原子力研究開発機構
広報部 報道課長 児玉 猛

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