ナノマシンにできないことを表現する不等式
ナノマシンにできないことを表現する不等式
— 応答の基本的限界をゆらぎであらわす —
概要
空気や海にある膨大なエネルギーを熱として取り出して仕事をしつづける機械はつくれません。これは人類の努力が足りないのでなく、科学技術がどんなに進歩しても絶対にできない宇宙の規則です。熱力学により、この規則はエントロピー注1とよばれる物理量を使った不等式として表現されます。近年、生体内で働く大きさ10ナノメートル(ナノは10億分の1)くらいの小さな機械に関する物理法則が議論されてきました。特に、小さな機械では周りの分子の影響を受けて相対的に大きくゆらぎながら作動するので、ゆらぐ機械の本質的限界を明らかにすることが問題になっていました。東北大学材料科学高等研究所(AIMR)Andreas Dechant 助教(2020年4月1日より京都大学大学院理学研究科特定研究員)と京都大学大学院理学研究科 佐々真一 教授は、本研究において、ゆらぐ機械が本質的にできないことを表現する新しい不等式を見出しました。機械が作動する条件を変えたときの応答の限界がゆらぎとエントロピーによってあらわされます。今後、新しい不等式を使って、個々のゆらぐ機械の性能を特徴づけることにより、生体内分子機械の設計原理が不等式によって解き明かされることが期待されます。
本研究成果は、2020年3月9日に米国の国際学術誌「PNAS」のオンライン版に掲載されました。
1.背景
科学技術がどんなに発展しても絶対にできないことがあります。例えば、空気や海にある膨大なエネルギーを熱として取り出して仕事をしつづける機械をつくれないことは19世紀に確立しました。それは熱力学第2法則として体系化され、その理論で中心的な役割を果たしたのが、乱雑さを特徴づけるエントロピーです。熱的に孤立した系においては決してエントロピーを減らすことができない、という普遍的な不等式によって表現することができます。
近年では、熱力学とエントロピーは、その適用範囲がマクロな機械を超えて、生体内で作動している分子機械をも対象とするようになってきています。例えば、大きさが10ナノメートル程度の分子モーターは、周りにあるたくさんの分子との衝突により、モーターの作動には大きなゆらぎが伴います。このようなゆらぐ機械であっても、熱力学法則の適用を受け、環境のエネルギーを無尽蔵に使うことはできません。さらに、ゆらぎを伴う機械には、その確率的な性質のために、新たな法則も存在することが分かってきました。これらの新しい法則を発見すべく多くの研究が行われています。熱力学第2法則よりも強い制限を与える普遍的な不等式を見出そうとする研究は、その中に位置づけられます。それらの不等式は、ゆらぐ機械では絶対に達成できないことを表現しています。天然の分子機械もその制約の中で進化して実現されたと考えられるので、ありえないことの全貌を理解することは、ゆらぐ機械の分類を考える上でも基本的な事項になります。
2.研究手法・成果
本研究では、ゆらぎを伴う機械の性能について、その基本限界を定式化しました。鍵となるのが、ゆらぎと応答の関係です。一般に、ゆらぎの大きさと応答の大きさには相関があります。例えば、水に大きさ100ナノメートル程度の小さな粒子が浮かぶとき、粒子は水分子との衝突により右往左往します。ゆらぎの大きさは単位時間あたりの平均2乗変位(拡散係数注2)によって特徴づけられます。この粒子に力を加えて応答をみると、小さな粒子は平均的にはある速さで動くので、力の大きさに対する速度の大きさ(易動度)がその応答を特徴づけます。この例では、ゆらぎが応答に比例し、その比例係数に絶対温度、気体定数、アボガドロ定数があらわれます。これは「アインシュタインの関係式」とよばれ、ゆらぎと応答の普遍的な関係の最初の例になっています。ただし、この普遍的な関係は、応答を与える前は「巨視的な流れ」がない状態(平衡状態)にあることを前提にしています。しかしながら、問題にしているゆらぐ機械については、エネルギーの注入と出力がバランスしている非平衡定常状態で作動しているので、アインシュタインの関係式は成立しません。そこで、その破れ方からエネルギー散逸を評価することを可能にする有用な公式が見出されたりするなど、ゆらぎと応答の関係からシステムの特徴を捉える試みがなされてきました。本研究では、応答の基本的限界を表現する不等式をゆらぎに着目して導きました。
理論的には、系の条件をわずかに変えたときの確率分布の変化を「相対エントロピー注3」とよばれる情報論的な量によって定量化することを出発点にとります。この量は二つの意味で重要になります。第1に、その操作に対する測定量の変化(応答)とゆらぎを相対エントロピーによって不等式で結びつけることができます。第2に、「物理的な問題」においては、その相対エントロピーが熱力学エントロピーの変化と関係づけられます。この二つを組み合わせると、ゆらぎ、応答、エントロピー変化が不等式で関係づけられます。特に、変化させる条件と測定量に応じて様々な形の不等式を導くことができます。近年見出されてきた関係式を含むだけでなく、新しい不等式を見つけるための基本的な道具になっています。
3.波及効果、今後の予定
今後、新しい不等式による基本的限界を使って、個々のゆらぐ機械の性能を特徴づける研究にすすみたいと考えています。生体内には多様な分子機械が働いていますが、様々な不等式によって区切られた領域の中で各々の分子機械が位置する場所を定量化することで、生体分子を分類する指標を与えたいです。本研究は、「生体内分子機械の設計原理を不等式によって解き明かす」という大きな目標を達成するための重要な起点になります。
4.研究プロジェクトについて
本研究は、科学研究費補助金新学術領域(研究領域提案型)「情報物理学でひもとく生命の秩序と設計原理」計画研究班「ゆらぎと応答の基本限界から探索する生体分子の設計原理」科研費番号(19H05795) の支援を受けて行われました。
用語解説
- 注1 エントロピー:
- 乱雑さの程度を特徴づける量。19世紀に、運動の激しさという乱雑さと分子の散らばり具合という乱雑さを相互に変換して比べられるように定式化された。その後、ミクロな世界の確率分布を使った表現を経て、情報理論においても重要な役割を果たしている。
- 注2 拡散係数:
- ふらふらよろめく粒子に対しては、ある時間間隔におけるある方向の変位は正になったり負になったりし、その大きさもばらついている。時間間隔を固定して繰り返し測定することで、変位の2乗の平均値を求める。この平均2乗変位が時間間隔に比例するとき、その比例係数を2で割った量が拡散係数である。
- 注3 相対エントロピー:
- 二つの確率分布の情報論的な差異を表す量。カルバック=ライブラーダイバージェンスともよばれる。
研究者のコメント
「高校そして大学でも物理を勉強するとき、多くの場合等式だけを扱います。ある物理量が他の物理量の組みあわせと等しいということから、その量を計算して求めることができます。それでは、どうして不等式に注意を向けるのでしょうか。物理学におけるもっとも基本的な結果である「熱力学第2法則」、「量子力学における不確定性関係」、「相対性理論における光速による速度限界」は、全て不等式によって定式化されるからです。不等式は、何ができて何ができないかという現実世界の限界を教えてくれます。その大きなパズルに少しでも寄与し、皆さんにこの魅力的なトピックスに興味をもってもらうことを願っています。」デヒャント アンドレアス
「大学の講義では、エネルギーを熱として取り出して仕事をしつづける機械をつくれないことを前提にして広がるマクロな世界の法則について熱く語っています。数年に一回くらい、「ミクロなマシンだとどうなるのですか?」という素朴な質問を受けます。そこには私たちが理解していない世界が広がっています。そのような息吹を感じてもらえれば嬉しいです。」佐々真一
論文タイトルと著者
タイトル: | Fluctuation-response inequality out of equilibrium(平衡から離れたところでのゆらぎと応答の不等式) 著者:Andreas Dechant and Shin-ichi Sasa |
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掲載誌: | Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America |
DOI: | 10.1073/pnas.1918386117 |
問い合わせ先
佐々真一(ささ・しんいち)
京都大学大学院理学研究科・教授
Tel: | 075-753-3743 (office) |
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E-mail: | sasa@scphys.kyoto-u.ac.jp |
Twitter: | sasa3341 |