スピントロニクス疑似量子ビットを従来比100倍超に高速化

2021年03月19日

東北大学電気通信研究所
東北大学高等研究機構
東北大学先端スピントロニクス研究開発センター
東北大学スピントロニクス学術連携研究教育センター
東北大学国際集積エレクトロニクス研究開発センター
東北大学材料科学高等研究所
科学技術振興機構

スピントロニクス疑似量子ビットを従来比100倍超に高速化

~エントロピーを用いた磁化のブラウン運動の新しい理解に基づき演算速度の向上に道筋~

発表のポイント

  • スピントロニクス技術を用いた擬似的な量子ビット(確率ビット:Pビット)で1秒間に1億回以上状態を更新する重要技術を開発
  • エントロピーの概念を非平衡動的磁化過程へ導入することでPビットの高速動作原理を解明
  • Society5.0での活躍が期待される、複雑な計算問題の処理を得意とする「確率論的」コンピューターの開発を加速

概要

「量子コンピューター」や「確率論的コンピューター」など、「不確定性」や「確率性」を積極的に利用した従来にないコンピューターが注目を集めており、これらを実現するための、電子の持つ電気的性質と磁気的性質(スピン)の同時利用に立脚する「スピントロニクス」注釈1)技術の活用が有望視されています。

東北大学電気通信研究所の金井駿助教、早川佳祐博士前期課程学生、大野英男教授(現、総長)、深見俊輔教授らは、スピントロニクス技術を用いた擬似量子ビット(確率ビット:Pビット)素子を、1秒間に1億回(従来比100倍)動作(「物忘れ」)させるための重要技術を開発すると共に、これまで着目されてこなかった動的磁化状態の「エントロピー」を考慮することでその物理的起源が説明されることを示しました。本成果は、確率論的コンピューターの研究開発を加速するものです。加えて、「ゆらぎの定理」などの非平衡熱統計物理学の新概念とスピントロニクスを繋ぐ革新的な手法を提供することが期待されます。

本研究成果は2021年3月17日付で米国の科学誌「Physical Review Letters」及び「Physical Review B」で各一報ずつが連携論文として公開され、いずれの科学誌においても「編集者推薦論文」として高い評価を受けました。

詳細な説明

背景 ― スピントロニクス技術を用いたPビット素子 ―

現代の情報社会では、情報をビットと呼ばれる「0」と「1」の決定論的な2値で表現して演算・記憶を行っています。例えば電子の持つ電気(電荷)と磁気(スピン)の2つの性質を同時に利用するスピントロニクス注釈1)の原理を用いた不揮発性磁気メモリー(MRAM)では、図1に示す磁気トンネル接合注釈2)素子において自由層の磁化(N極/S極)の方向でデジタル情報が記憶されます。ここで各状態には必ず「ゆらぎ」があり、ある一定の確率でそれによる情報の喪失(「物忘れ」)が起こることから、その頻度を十分に低減しながら他の性能を向上するための研究が精力的に行われてきました。

磁気トンネル接合では、「0」と「1」の2状態間のエネルギー障壁が十分に高ければ「物忘れ」が抑制されます。一方で、エネルギー障壁が低い場合、2状態間の確率的な遷移を短い時間周期で繰り返します。2019年に東北大学と米国Purdue大学の共同研究チームはこの性質が不確定な2状態の重ね合わせ状態を取れる量子ビット(Quantum bit; Qビット)と類似している点に着目し、Qビットを模した確率ビット(Probabilistic bit; Pビット)を開発しました。そして1秒間に1000回程度ビット状態が書き換わる(「物忘れ」する)磁気トンネル接合素子を連結し、古典コンピューターが苦手とする最適化問題などを解く確率論的コンピューター注釈3)の原理実証を行いました(『室温動作スピントロニクス素子を用いて量子アニーリングマシンの機能を実現』)。確率論的コンピューターは熱ゆらぎによる状態の更新頻度が高いほど計算の速度と精度が向上することから、素早く「物忘れ」する磁気トンネル接合の開発が最重要課題の一つとなっていました。

成果 ― スピトロニクスPビット素子のナノ秒動作とその原理の解明 ―

今回、東北大学の研究チームは、電気通信研究所附属ナノ・スピン実験施設の設備を用いて、図1に示された面内磁化容易軸注釈4)を持つ磁気トンネル接合を作製し、1秒間に1億回を超える状態更新の観測に成功しました。実際に透過電圧を高速オシロスコープで測定した結果が図2に示されています。磁気抵抗効果注釈2)により、平均8ナノ秒で「0」と「1」の状態間を高速に遷移していることが分かります。これまでの磁気トンネル接合の状態更新時間の世界最短記録の報告値は980ナノ秒であり、本成果はそれを100倍以上更新しました。

研究チームはこの大幅な高速化が磁化の熱ゆらぎに関する新しい理論的枠組みで説明できることを明らかにしました。磁性体の磁化は磁場や磁気異方性注釈4)の影響を受けて運動し、その挙動は絶対零度では決定論的運動方程式(ランダウ・リフシッツ・ギルバート方程式)により計算されます。一方で有限温度では熱ゆらぎにより磁化の運動に確率性が生じ、これはブラウン運動全般を記述する確率論的運動方程式(フォッカー・プランク方程式)で記述されます。本研究では、この2つを組み合わせた確率論的運動方程式を用い、観測されたナノ秒での状態間遷移の挙動を数値計算シミュレーションにより再現しました。ある時刻で確定していた状態は、時間経過とともに徐々に状態の情報が不確かになり、最終的に状態を推定できなくなります。これが素子の「物忘れ」に相当します。この「物忘れ」は不揮発性記憶素子では致命的な欠陥となる一方で、Pビットでは重要な駆動原理です。「物忘れ」は言い換えると系の乱雑さ、すなわちエントロピー注釈5)の増大とみなすことができます。これまで、エントロピーという概念は磁性体を扱う確率論的運動方程式では積極的に考慮されてきませんでした。本研究では、エントロピーが動的に変化する様子を理論計算により調べ、エントロピーの増大速度が従う方程式を導出しました。導出した方程式から、面内磁化容易軸を持つ磁性体において垂直方向の磁気異方性の絶対値が大きいほどエントロピーが急速に増大し、「物忘れ」が高速に進むことが説明されました。

成果の意義と今後の展望

本研究で導かれた磁性体のエントロピーの時間変化に関する理論的枠組みは学術的に広範な意味を有しています。例えば、磁性体には「歳差運動が高速であるほど、高速に磁化反転する」という経験則がありますが、これは上記方程式で統一的に説明できます。また、エントロピーの時間変化を明示的に扱う本研究は、統計力学で百年以上続いたミクロな可逆性とマクロな不可逆性の関係に関する議論に近年大きな進展をもたらした「ゆらぎの定理」などとも関連が深く、スピントロニクスと非平衡統計物理学を密接に関連させるきっかけとなることが期待されます。

また、本研究で開発した秒間1億回の状態更新を達成した素子に用いられている材料は、現行の半導体回路製造技術とも整合性が高く、高性能確率論的コンピューター実現の基盤となることが期待されます。今後、今回確立された超高速動作に関する理解と、これまでに構築されてきた演算技術、及びその基盤となる材料技術を向上させ高度に融合されることで、スピントロニクスを用いた高性能確率論的コンピューターの開発がより一層加速されるものと期待されます。

本研究は、科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業 CREST「スピンエッジコンピューティングハードウェア基盤」(研究代表者:佐藤 茂雄)JPMJCR19K3、日本学術振興会 科学研究費助成事業 基盤研究(B)20H02178、基盤研究(S)19H05622などの支援を受けて行われたものです。

図面

図1) (左上)作製した磁気トンネル接合素子の構造:数字はナノメートルの単位。
(右上)走査型電子顕微鏡像:楕円形の素子を上から撮影した様子。
(左下)素子抵抗の外部磁場依存性:直流で測定した素子の抵抗を示している。磁気抵抗効果により、磁化方向の変化に対応した抵抗変化が観測された。
(右下)対応する状態の模式図:ビットの「0」と「1」に対応したエネルギーポテンシャルと、その間にあるエネルギー障壁の磁場依存性、熱ゆらぎによる状態遷移の様子を示しており、それぞれ左下の図の抵抗の状態に対応している。

図2) 超高速での磁気トンネル接合の状態更新の観測結果:図1の状態bに対応する状態での抵抗を、ナノ秒の信号が測定可能なオシロスコープで測定した様子。明瞭に、状態「0」と「1」の間を遷移している様子が観測され、ナノ秒オーダーでの反転時間が観測された。

用語解説
注1)スピントロニクス
電子の持つ電気的性質(電荷)と磁気的性質(スピン)を同時に利用することで発現する物理現象を明らかにし、工学的に利用することを目指す学術分野。スピンの持つ量子的性質はナノメートル(10のマイナス9乗メートル)のスケールで顕著に見られ、微細加工技術の進展とともに様々な関連現象が発見されてきた。例えば従来は不可能であった磁気的性質や磁化方向の電気的な検出や制御(スピントルク磁化反転)、電気伝導特性の磁場や磁化による制御などが可能となり、現在も様々な現象が発見され続けている。
注2)磁気トンネル接合、磁気抵抗効果
磁気トンネル接合とは、二層の強磁性体でナノメートル程度の膜厚の絶縁体を挟んだ積層膜構造を指す。磁気トンネル接合を記憶素子として用いることでMRAMと呼ばれる不揮発性記憶素子が実現できる。情報の書き換えに上述のスピントルク磁化反転を利用するSTT-MRAMは、2018年頃から大手企業で量産が始まっている。
磁気抵抗効果とは、磁気トンネル接合において二層の強磁性体の磁化の相対角に応じて抵抗が変化する現象を指す。図1では、磁化方向が逆向きとなる場合に抵抗が高く(状態a)、磁化方向が揃った場合に抵抗が低く(状態c)なる。本研究ではこの効果を利用して高速にビット状態の読み取りを行い、ナノ秒での「物忘れ」の実験が行われた。
注3)確率論的コンピューター
R.P.ファインマンが提唱したことで知られる、自然現象を効率良く再現するためのコンピューターの一つ。確率論的コンピューターでは短時間で出力信号が確率的に変化し、かつ各ビットを電気的に相関させられる確率ビット(Pビット)が情報処理の基本単位となる。同時に2つの不確定な情報の重ね合わせ状態を持ち、かつビット間でもつれあい(相関状態)を形成できる量子ビット(Qビット)とは本質的に異なるが、一定の類似性があることから、量子コンピューターと並んで非従来型のコンピューターとして注目されている。
注4)磁気異方性、磁化容易軸
磁化のN極/S極の方向が変化した際に内部エネルギーが変化する現象を磁気異方性と呼び、磁化の向きやすい方向を磁化容易軸と呼ぶ。第一世代のMRAMでは薄膜の膜面内方向が磁化容易軸である磁気トンネル接合素子が用いられているが、2018年頃から量産化が開始された第二世代のMRAM(STT-MRAM)では2010年に東北大学・日立製作所の共同研究グループが開発した、垂直磁化容易軸を持つ磁気トンネル接合材料がデファクトとして利用されている。今回の研究では、面内磁化容易軸を持つ磁気トンネル接合で緩和時間が短くなることが理論的に予想され、上記の実験により実証された。
注5)エントロピー
「乱雑さ」を表す物理量。これまで磁性体の熱ゆらぎに関する研究でエントロピーが明示的に扱われることはほぼ無かった。本研究では、このエントロピーを明示的に扱うことで、「物忘れ」時間を短縮するための理論的指針を得ることに成功し、実験で実証された。

掲載論文

Title: “Nanosecond Random Telegraph Noise in In-Plane Magnetic Tunnel Junctions”
(面内磁気トンネル接合におけるナノ秒ランダムテレグラフノイズ)
Authors: Keisuke Hayakawa, Shun Kanai, Takuya Funatsu, Junta Igarashi, Butsurin Jinnai, William A. Borders, Hideo Ohno, and Shunsuke Fukami
Journal: Physical Review Letters
DOI: 10.1103/PhysRevLett.126.117202新しいタブで開きます

Title: “Theory of relaxation time of stochastic nanomagnets”
(確率論的ナノ磁性体の緩和時間の理論)
Authors: Shun Kanai, Keisuke Hayakawa, Hideo Ohno, and Shunsuke Fukami
Journal: Physical Review B
DOI: 10.1103/PhysRevB.103.094423新しいタブで開きます

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