室温動作スピントロニクス素子を用いて量子アニーリングマシンの機能を実現

2019年09月19日

東北大学電気通信研究所
東北大学先端スピントロニクス研究開発センター
東北大学スピントロニクス学術連携研究教育センター
東北大学国際集積エレクトロニクス研究開発センター
東北大学材料科学高等研究所

室温動作スピントロニクス素子を用いて量子アニーリングマシンの機能を実現

発表のポイント

  • 室温動作が可能な新概念・揺らぎ利用スピントロニクス素子を開発
  • 開発したスピントロニクス素子を疑似的な量子ビット(pビット)として用いたデモシステムを構築し、量子アニーリングと同様な手法を適用して因数分解を実証
  • 最適化問題などの既存のコンピュータが苦手とする複雑なタスクを効率的に処理する新たな方式として期待

概要

国立大学法人東北大学電気通信研究所の大野英男教授(現総長)、深見俊輔准教授、William Andrew Borders博士後期課程学生らは、米国パデュー大学のSupriyo Datta教授のグループと共同で量子ビットと似た機能を有する新概念スピントロニクス素子を開発し、次いでそれを用いて量子アニーリングマシンを模倣したシステムを構築し、室温にて因数分解の実証に成功しました。

今回研究チームが開発したスピントロニクス素子は広く研究開発が行われているものとは対極に位置するものであり、「0」状態と「1」状態が短い時間間隔で確率的に揺らぐように設計されています。これは「0」と「1」の重ね合わせ状態を制御する量子ビット(qビット)のように利用できます。実証実験では、この“疑似”量子ビット(pビット)からなるネットワークに量子アニーリングと同様な手法を適用して因数分解を行い、最適化問題を扱う手法としての汎用的な有用性を実証しました。

近年、量子アニーリングを含めた量子情報処理技術が、複雑性を伴う様々な問題を解く上で既存のコンピュータと比べて優れた処理能力を有するものとして、国内外で大変注目されています。今回開発した素子技術は量子ビットと多くの点で互換性があり、かつ室温動作が可能、ビット間の相互作用の実装や大規模化が容易であるなどの特徴を有しており、情報処理技術に新たな展開をもたらし得るものと期待されます。

本研究成果は2019年9月19日午前2:00(日本時間)に英国の科学誌「Nature」のオンライン版で公開されます。

詳細な説明

qビットとpビット

量子力学の原理を利用して情報処理を行う量子コンピュータは、古典コンピュータが苦手とする最適化問題(注1)などの複雑な問題を効率的に処理できると期待され、国内外で活発な研究開発が行われています。古典コンピュータでは情報を0と1のビット列で表して逐次的に演算が行われるのに対して、量子コンピュータでは0と1の重ね合わせ状態を利用して並列に演算が行われます。量子コンピュータには、ゲート方式とアニーリング方式(注2)があり、一般的にはゲート方式はより汎用性が高く、アニーリング方式は主に最適化問題に有用であるものと認識されています。

量子コンピュータの可能性を早い段階から指摘した研究者として米国のリチャード・ファインマン博士が知られています。彼は1981年に行った講演の中で「自然を効率よく計算するには量子力学の原理を用いるのが得策である」と述べています。ところでこの講演でファインマン博士は量子計算の前段階と位置付けられる別の計算原理に基づくコンピュータの可能性にも言及しています。それがProbabilistic computer(確率論的コンピュータ)です。量子コンピュータでは量子ビット(Quantum bit:qビット)が計算を行う基本ユニットとなるのに対して、確率論的コンピュータでは0と1の間で状態が常に時間的に揺らぎ、その滞在確率が外部入力によって制御可能なProbabilistic bit(pビット)が用いられます。これまでqビットについては、主に超伝導磁束量子などが用いられ、ゲート方式では数10ビット、アニーリング方式では数1000ビットの量子コンピュータが開発されているのに対して、pビットを用いた確率論的コンピュータに脚光が当たることはあまりありませんでした。

スピントロニクス素子

電子の持つ電気的性質(電荷)と磁気的性質(スピン)を同時に利用するのがスピントロニクスです。スピントロニクスの原理を用いることで、微細な磁石の磁化(N極/S極)の方向でデジタル情報を記憶し、それを電気的に読み書きできる、不揮発性磁気メモリ(注3)が実現できます。この技術は2018年頃から世界的大手半導体ファウンドリにて大規模な量産化が始まっており、メガ(100万)ビットクラスの製品が出荷されています。

この不揮発性磁気メモリにおいて情報の記憶を担うのが磁気トンネル接合素子(図1上)です。磁気トンネル接合は磁性金属からなる自由層と固定層が薄い絶縁体からなるトンネルバリアを挟んだ構造を有します。固定層の磁化方向は固定されており、自由層の磁化方向は上下いずれかの方向に可変です。この自由層の磁化の方向が記憶情報の0と1に対応付けられます。熱などの擾乱に対して安定に情報を保持するためには、自由層の磁化の方向が簡単に反転してしまわないよう、その間のエネルギー障壁が熱揺らぎ(注4)に対して十分に高くなるように設計する必要があります。これがこれまでの磁気トンネル接合素子開発の重要なポイントの一つでした。

スピントロニクスpビット

今回、研究グループは、従来の不揮発性磁気メモリ向け素子とは真逆の特性を示す新概念磁気トンネル接合素子を開発しました。従来型素子と今回の素子の対比が図1の下側に図示されています。今回開発した素子は自由層の磁化が上を向いた状態(N極/S極)と下を向いた状態(S極/N極)の間のエネルギー障壁が極端に低減されています。これによって0と1の状態間を熱によって短い時間間隔で確率的に行き来し、0と1の状態の間で絶えず揺らぎます。ここに電流を導入すると、スピントロニクスの原理により、電流の方向や大きさに依存して、0状態と1状態に滞在する割合を制御できます。これはまさしくpビットに求められる性質であり、確率論的コンピュータへの応用が期待されます。図2には作製したスピントロニクスpビットの入力電圧と出力電圧の関係(上図)、及び各入力電圧での時間的な揺らぎの測定結果(下図)が示されています。用いた磁気トンネル接合素子の直径は60ナノメートルです。

このスピントロニクスpビットは、qビットのようにして用いることができます。そしてqビットと較べて、主に以下に述べるような3つの特長を有しています。

  • [室温動作] 現在開発が行われているqビットの多くは絶対零度(-273℃)に近い温度まで冷却する必要があるのに対して、スピントロニクスpビットは室温を含む広い温度範囲で動作します。
  • [技術的成熟性] 今回のpビットは、不揮発性磁気メモリ向けの磁気トンネル接合をベースにし、膜厚の調整のみによって実現されています。従って、今後の大規模化に向けても量産レベルの既存技術が活用できます。
  • [相互作用の実装容易性] 量子計算の際にはqビット間で相互作用が必要になります。多くの場合qビットの相互作用は短い距離でしか働かず、また3ビット以上の相互作用(多体相互作用)の実装も困難です。対してスピントロニクスpビットは電気信号で相互作用させることから、距離が離れたビット間での相互作用や、多体相互作用も容易に実装できます。
因数分解の原理検証実験

研究チームはこの開発したスピントロニクスpビットを用い、因数分解を行うデモシステムを構築しました。デモシステムの写真が図3(a)に示されています。因数分解は古典コンピュータが苦手とする問題の典型例であり、これが現在広く用いられている暗号化技術の前提となっています。量子アニーリング技術においてはこの因数分解に最適化問題で一般的に用いるアルゴリズム(注1)を適用します。そこで今回のスピントロニクスpビットからなるデモシステムにも量子アニーリングと同様なアルゴリズムを適用し、因数分解の原理検証実験を行いました。

実験で得られた結果が図3(b)、(c)に示されています。(b)は4つのpビットを用いた35の因数分解、(c)は8つのpビットを用いた945の因数分解です。上段は各pビットを相互作用させていない(因数分解の機能を与えていない)状態での結果、下段は各pビットを相互作用させた(因数分解の機能を与えた)状態での結果です。実験はすべて室温で行われており、4ビット間での相互作用までが実装されています。相互作用させた場合において、35はその因数である7と5に、945はその因数である63と15に分解できていることが確認されました。

意義と今後の展望

今回の手法を他の計算手法と比べると、以下のことが言えます。まず古典コンピュータと比べた場合、最適化問題をある精度で手軽に解くことができるという特徴があります。古典コンピュータは厳密解を得るのに長けていますが、問題の複雑性や規模が増すにつれて計算時間が極めて長くなるという弱点があります。これに対して今回の手法は限られた時間でもある精度の近似解が得られます。一般的に最適化問題は必ずしも厳密解が求まらなくても近似解で十分な場合が多く、そのような場合には特に今回の手法は有用と言えます。またナノスケールの磁気トンネル接合素子を用いる今回の手法は、大規模化や装置の小型化という点でも有用です。また量子コンピュータと比べると、前述の通り室温動作などの優位性があります。ただし、今回の手法は厳密な意味では「アニーリング」を用いておらず、いくつかの問題に対しては量子アニーリング技術が有効であると考えられます。

今回の結果は最適化問題を解く新たな手法としての有用性を示しています。今後、大規模化に向けた素子技術や専用アルゴリズムなどの開発が進むことで、スピントロニクスpビットを用いた確率論的コンピュータによる情報処理の革新がもたらされるものと期待されます。

本研究は、内閣府革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)、日本学術振興会・科学研究費助成事業・特別推進研究17H06093などの助成を受けて行われたものです。また本研究で用いたスピントロニクス素子は東北大学電気通信研究所附属ナノ・スピン実験施設にて作製されたものです。

図面

スピントロニクス素子(磁気トンネル接合素子)

図1)スピントロニクス素子(磁気トンネル接合素子)。上段は磁気トンネル接合の構造の模式図。下段は従来の不揮発性磁気メモリ用途と今回のpビット用途の磁気トンネル接合素子の違いの説明図。従来の不揮発性メモリ素子では0状態と1状態の間に高いエネルギー障壁があり、状態が熱揺らぎで変わらないように設計されるのに対して、スピントロニクスpビットでは熱揺らぎによって0状態と1状態の間を確率的に行き来できるように設計される。

スピントロニクスpビットの動作の測定結果

図2)スピントロニクスpビットの動作の測定結果。上段は時間平均した出力電圧の入力電圧依存性。プロットは測定結果で、曲線はシグモイド関数によるフィッティング。下段は各入力電圧(1.875 V, 1.950 V, 2.000 V)での出力電圧の時間変化。ミリ秒の時間スケールで0と1の間を変動していることが分かる。

構築した確率論的コンピュータのデモシステムの写真とブロック図

図3)(a) 構築した確率論的コンピュータのデモシステムの写真とブロック図。(b) 4つのpビットを用いた35の因数分解の実験結果。(c) 8つのpビットを用いた945の因数分解の実験結果。(b),(c)において、上段はpビット間で相互作用を与えていない状態、下段は相互作用を与えた状態。

用語解説

注1)最適化問題
複数ある選択肢の中から与えられた条件に最も適した一つを求める問題。代表例に「巡回セールスマン問題」がある。巡回セールスマン問題とは、セールスマンがいくつかの地点を一度ずつ訪問して最後にもとの地点に戻ってくるものとし、移動距離が最小になる経路を求める問題。地点の数が増大すると組み合わせの数が爆発的に増大する。
例えば巡回セールスマン問題であれば、得られる解が必ずしも最短距離のルートでなくてもある程度短ければ良いように、最適化問題の多くの場合は近似解で十分に価値がある。
最適化問題をアニーリング方式で解く場合、エネルギー関数(またはコスト関数)を定義し、このエネルギー関数が最小化されるように系を緩和させていき、解を得る。
注2)ゲート方式とアニーリング方式
ゲート方式とは1つ1つのビットを制御して演算を行う方式。アニーリング方式は最適化問題に特化した計算手法であり、複数のビットからなるネットワークの相互作用を解きたい問題に応じて設定し、高いエネルギー状態から徐々に緩和させていくことで最もエネルギーが低い状態に対応する最適解を得る。
注3)不揮発性磁気メモリ
磁気抵抗ランダムアクセスメモリ(Magnetoresistive Random Access Memory: MRAM)とも言われる。磁気トンネル接合において、磁化の方向で0,1のデジタル情報が記憶され、電気的に読み出し、書き込みが行われる。2006年頃から第一世代のMRAMは商用化されているが、市場規模は限定的である。2018年ごろからは書き込み(磁化反転)にスピン移行トルク(STT)を用いるSTT-MRAMの実用化が始まり、今後の市場の拡大が期待されている。
注4)熱揺らぎ
状態の熱による揺らぎ。熱揺らぎのエネルギーはボルツマン定数kB(1.38×10-23[J/K])と絶対温度T[K]の積(kBT)の程度であり、27[℃](=300[K])では4.14×10-21[J]である。これは身の回りのエネルギースケール(例えば1グラムの水の温度を1℃上昇させるのに必要なエネルギーは1カロリー=4.18[J])と比べると無視できるほど小さいが、スピントロニクス素子が動作する微小な世界では重要な作用をする。

論文情報

Title: “Integer Factorization Using Stochastic Magnetic Tunnel Junctions” Authors: W. A. Borders, A. Z. Pervaiz, S. Fukami, K. Y. Camsari, H. Ohno, and S. Datta Journal: Nature
DOI: 10.1038/s41586-019-1557-9新しいタブで開きます

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