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モデルの「見切り」

2022年5月22日

真鍋さんが昨年ノーベル賞を受賞されたことに伴い,複雑な現象とそのモデル化,さらにその数値実験の役割について,多くの考察が出てきた.数学セミナー2月号でも少し述べたが(「まねる」ことから見る数理モデル」数学セミナー2月号,vol.61, no.2 (2022)),気候現象は階層的かつ複雑であり,どこまでの情報を,どれくらい精密に計算すれば,欲しい結果が出せるのか,前もって判断することは難しい.1960年代は計算機の資源も乏しく,世界でも自由に使える人はかなり限定されていただろう.むしろそのような制約下で,モデルを適切に「見切る」ことにより,定性的に正しい結論を得ることは,多くの示唆と,考え方の方向性を与えてくれる(雑誌「科学」5月号(2022年)に木本昌秀氏の「するどい見切り,真鍋スタイル」という記事があり,そこでの「見切り」という言葉をここで使わせていただいている).再現性のよさ,実際のデータとのズレを最小限にすることを目標にするならば,見切ることで失うものは大きく,受け入れられないだろう.しかしモデルの感度,つまり外的要素が変化したときに,モデルはどう反応するだろうか,を定性的に,かつなるべく仕組みがわかるように理解したければ,この見切りは不可欠になるだろう. 有名な1次元対流モデルは,二酸化炭素が倍増すれば,気温がどれくらい上昇するかを(定性的に)見事に予測している.ある程度丁寧に説明すれば,科学者でなくともそのシナリオは理解できるであろう.ポアンカレは解を厳密に解くのではなく,定性的にかつ長時間挙動を知ることができる力学系的見方を提案した.これにより大域的にロバストな構造を捉えることができ,「予測する」ということの意味をラプラスから大きく飛躍,発展させた.数学・数理科学の様々な手法は,これら一群の「見切りモデル」でその潜在的力がまだまだ発揮できると思われる.さらにより精密かつ大規模モデルの平均化極限がその見切りモデルになっているならば,やはり複雑モデルを扱う上で,大きな指針となるであろう.

時定数の違いは何をもたらすか?

2022年5月5日

市場の反応は,すばやくかつ相手や場所を選ばず浸透する.これはグローバル化,情報ネットワークの必然の結果である.しかしながら適切に対応できる制度,インフラ,さらに人の意識ははるかに長い時間を要し,そこに深い溝が生じる.短時間での即時対応(スピード感)は至る所で求められ,そこに乗り遅れることは敗北を意味する.このような最適化は,時空間での局所最適化には最も適しているが,少し長い時間スパンでは後戻りできない困った状況を生み出すことも多い.未来予測は難しく,不確定要素が余りにも多い中で,それ以外のどのような方策があるというかという声が現場からは聞こえてくる.
数理モデルにおいて,そのような時定数の差により,大きく最終状態が違ってくるということを明示的に示す具体例に今取り組んでいる.比喩的には次のような状況を思い浮かべればよい.今,高い山の頂上から下山する,あるいはスキーで滑り降りるとしよう.最速で降りるには,最も勾配のきつい,あるいは等高線に常に直交する方向に下ればよい.しかし現実には地形や植生,さらには天候に左右され,そのような方向には下れないであろう.むろん今は整備された登山道はないような状況で考えている.とくに強風が吹いていて,それに流されつつ下山するという状況が,最速降下の向きと常にずれつつ下山するということにうまく対応する.時定数の差というのは,正にこの最速降下方向のずれを意味すると考えてよい.容易に想像できるように,そのような方向にずれていけば,最終目的地は当初とは大きく異なってくる.また途中の経由地もその差に応じて多様化する.面白いのは,山の形状は全く変わらないが,時定数の違いをうまく利用すれば,新たな目的地を発見できることである.同時に見落としていた面白い経由地も見つかることもあり得る.複雑かつ膨大な地形と目的地の多様性が尋常ではない状況で,思いもかけない新天地の発見がこのような手法で見つかることを期待している.

科学に主観性を持ち込む

2022年1月31日

古い段ボールを整理していたら,昔の数学セミナーの書評を発見した. 1988年7月号に掲載の「ファジイ理論とその応用」(水本雅晴著,サイエンス社)の書評である(そのPDFはリンク先にある).亀井哲治郎さんがバリバリの編集長の時代である. 標題はやや誤解を招く表現ではあるが,あえてそのまま掲げた.実はこれはその年の1月号のファジイ理論の解説を書かれた菅野氏の副題にあると冒頭に記載されている.これは言い換えれば「あいまいなものに定量的な客観性」をもたせようというのがファジイ理論の主眼であることを,主客逆転した言い方で主張しているわけである. ここでその後のファジイ理論は...と続けたいところであるが,それは専門家に任せるとして,これが気になったのは,少し前から「不確実性」 ”Uncertainty quantification”の話がいろいろな分野で頻繁に使われるようになってきたからである. なんらかのモデルで現象を予測しようとすると,パラメータ値や初期条件に曖昧さが残る. それらがある確率分布をもつとして,それがどのように伝播し,予測に影響を与えるのかを考えようというわけである. とくに私が興味のある分岐理論では,パラメータについての uncertainty が気になる.なぜなら分岐現象はその前後で大きく解の振る舞いが定性的に変化するからである.大雨なのか快晴なのかという違いがどれくらいの確率で起こりうるのかは重要である.周りの環境はゆっくり変化していても,ある瞬間に現状とは全く異なる事態になってしまうことを”Tipping”が起こると力学系の研究者は好んで使うが,このときに周りの環境を決めているパラメータの変化のスピードが重要である. 怖いのは知らず知らずにこの変化のスピードが加速しているときであろう. Tipping point にどれだけ近いかは重要であるが,そこへの近づく早さも大切である.これはおそらく主観的に感じ取ることはかなり難しい.

1988_数セミ書評_07-88

”ひと”か”もの”か

2022年1月15日

70年代に中央公論社の「自然」という雑誌にロゲルギストエッセイというリレー連載があり,その中に「文科と理科」というLogergist K2による記事がある(1975年3月号).いわゆる文科的人間と理科的人間が「ある」として,自然科学の教え方を同じようにやってもうまくいかないのではというところから文科と理科の比較論が始まる.理科を出て哲学者になったり,市長になったりするものもいるので,例外は挙げればきりがない.しかしあえてそれを1次元スペクトルにならべると,一方の端に詩人がいて,他方は数学者,真ん中に経済学者や医者などとかなり強引な分類がなされた後(この乱暴な分類は後でL氏から大きな修正を余儀なくされることになるが),理科の連中は「もの」に興味があり,文科は「人間」に関心があるのではという当座の仮説に落ち着く.つまり文科の世界は目に見えない観念や感情を伝え合う言葉の世界,それが織りなす世界,理科は目で見て,手でさわることのできる「もの」の世界だ.他の人が書いた本だけを材料にして,<研究>ができ,学問が成り立つ<ことばの世界>というのは不思議な世界だね,と実験科学者は言う.ある仮説なりを立てて,うまくいくかどうか trial and error で試行錯誤するのは理科の人間にとっては自然な方法である.一方文科の人(法科)から,そんな無節操なことはできない,いったん方針を決めたら最後まで貫かなければならない..と言われる.やり直しが効かない生身の人間相手にそんなことはできない.ドクトリン(教条主義)が採用され,やって見よう主義は却下となる.ここまでの議論に対し,別のL教授(文学者)から痛烈な批判が入るがここでは割愛する.最後にまとめとして,最初の課題:文科の学生にどのような自然科学教育が可能かについて,いわゆる basic science の体系(の一部)を教えようとするのではなく,introduction to science に徹することだろうとなった.とくに「ものを見せて,新鮮な驚きを味わわせること,推理によって意外な,しかし揺るぎない結論が生まれる過程を見せることで驚きを味わうこと」が必要だろう.これにより体系的な自然科学というものは教えることはできないとしても,自然科学という人間精神の一つの活動への門戸を開き,自然科学には<絶対に正しい理論>はなく(数学者の方からは反論が出るであろうが),到達できるのはたかだか<よりよい近似>だということー教条主義のアンチテーゼーをわかってもらえれば十分ではないかという当面の結論にたどり着く.
コモンズの数学ということで私自身も,数理モデルなるものを用いて,(自然科学者でない方々に)何を理解してもらえればよいだろうか,それにより世界の現状を見る目がどのように変わるだろうかを考えている.新鮮な驚きを与えることは十分に可能である.問題は後半の長い連鎖の過程を経て生まれる揺るぎない結論にたどり着く過程を味わい,そして自分毎としてのそれを取り込んで行くプロセスをどのようにお手伝いできるかが簡単ではない.そこでは文科的発想と方法論も必要になってくるだろう.

数学者たちのこころの中

2022年1月11日

NHKラジオ講座「こころをよむ」シリーズに三浦伸夫氏の「数学者たちのこころの中」(2022年1月〜3月)が始まった.友人のS氏にこのようなラジオ講座があるよ,と教えてもらい早速テキストを購入した.せっかくのラジオ講座なので, あまり予習をし過ぎて,初めて聞く感動を失いたくないと思ったのだが,ついついテーマを見てつまみ食いしてしまった.いわゆる「数学偉人伝」ではなく,時代背景,生活信条,思想信条などその「こころの中」という襞に分け入った内容である.数学の歴史と言えば、昔読んだ森毅(一刀斎)の「数学の歴史」(講談社学術文庫)の切れ味の良さを思い出すが,手許にすぐに見つからず内容の一部を紹介できないが,そのときに覚えた歴史への興味をまた刺激されてしまった. メルツバッハ・ボイヤーの大著「数学の歴史」(講師の三浦氏も翻訳者の一人)も眺めたくなった.
仙台に単身赴任中は,テレビはなかったので,ラジオドラマや朗読も良く聞いていたのだが,音からの刺激は,様々なイメージを喚起されるので楽しい.声の主の性格や表情などを(たとえメディアで知っている人でも)改めて想像しながら聞くと,別の面が見えて(聞こえて)面白くなる.

ジャック・アタリ氏の隠喩

2022年1月2日

『「命の経済」への転換を』というタイトルでジャック・アタリ氏が日経12月16日のグローバルオピニオンで投稿している.豪華な宴を舞台にパニックが起ころうとしている.巨大なローソク台がカーテンの前に置いてある.今にも燃え移り,大火災となりそうである.一人の観察眼の鋭い男がいた.彼にはいくつかの選択枝があった.1.全員にマイクで状況を説明し,避難するように誘導する.しかしこれはパニックとなり,狭い廊下でドミノ倒しとなるであろう.2.今まで何も起きなかったのだから,今晩も何も起こらぬと,宴を楽しみ続ける.3.出口近くに陣取って用心深く振る舞う.4.無言で立ち去り,贅沢や快楽とは無縁の世界で暮らす.アタリ氏はそこでの行動様式の選択を通して,現在の刹那的「死の経済」から共生を重んじる「命の経済」への転換を隠喩として強く促している.これら以外の選択枝もありうるだろう.かってジャレット・ダイアモンド氏の「なぜ社会は繰り返し同じ過ちを犯すのか」という考察を思い出す方もおられるだろう.とりわけ全地球的課題に対し,ダイナミックな転換を従来の代表制民主主義の仕組みのみに頼って実現するのはかなり難しい.それではどのような意味のある行動が可能であろうか? 最近「気候民主主義」という活動を三上直之氏(北海道大学高等教育推進機構准教授)の論説やその活動から学ぶ機会があった.これについては稿を改めて紹介したい.

想像の産物が現実となる

2021年12月15日

第21回大佛次郎論壇賞は益田肇氏による「人々のなかの冷戦世界 想像が現実となるとき」(岩波書店)に与えられた.外交史に社会学的手法を取り入れ,冷戦とは何であったのか?を膨大な資料から論じている.第二次世界大戦後の不安定な社会情勢において,人々の小さな行為の連鎖が「冷戦」という想像上の「現実」を作り出したという(朝日新聞12月15日,2021年).国や影響力のある政治家の立場ではなく,名もなき草の根の人々から「冷戦」が生まれてきたという指摘は興味深い.朝鮮戦争当時と現在とでは,情報の拡散力は桁外れに異なる.この違いが「想像が現実となる過程」でどのように働くのか,形成過程が加速化されるのかどうか.ただし情報の拡散力といっても,かなりヘテロなので,モデル化するのは単純ではないだろう.ところで2021年のノーベル経済学賞は「自然実験」の提唱者らに与えられたが,最低賃金と雇用,育児休暇が働き方にどのように影響するかなど,対比的な具体例をデータから掘り起こし,その因果関係や政策効果を見極めようという試みである.気候変動問題は地球が一つなので,この自然実験はできないが,様々な地球を virtual に作り,このような状況であればこうなるであろうという対比は可能である.人々の意識を大きく変えるために,データとモデル化,それが引き起こすシナリオを様々な立場から実践する必要があるだろう.

贋作事始め-その2-

2021年11月27日

贋作事始め-その1- (2021年10月15日)に述べた巻頭言を以下に付けておく.これは故三村昌泰氏が代表者であった科研費特定領域研究(B) 11214101 のニュースレター第3号(2000年8月)に載せた巻頭言(はじめに)である.標題は付けていなかったのだが「贋作のすすめ」とでも言うべき内容である.この特定領域研究のテーマは「非線形非平衡現象を支配する特異性の解明」であった.数学者以外に非線形物理の理論・実験の方々が数多く参加されており,モデル論議を戦わせるには,恰好の場であった.

はじめに

もっと多くの「偽物」が出される必要があるだろう。しかも上質のものを。贋作も一定のレペルのものがある量以上集まれば、それは限りなく近い本物、場合によってはそれを凌いでしまうこともある。安南、ペルシャ、エジプト、ドイツのマイセン、オランダのデルフトときて、これが中国風磁器の贋作のシルクロードといえば驚かれる人も多いであろう。むろんこれらが すべて景徳鎮の青磁と同じ程度というわけではないが、その地方の独自性、歴史性を反映しており興味は尽きない。マイセンで当時(17世紀末から18世紀初頭)のザクセン王フリードリッヒ・アウグストが軍資金の補助のため、金と同じ価値をもつ磁器を錬金術匠に作らせた話は有名である。いわば偽物作りが世界経済の活性に大いに貢献したわけであった。人が表現するものは焼物であれ、数学であれ、それを鑑賞する人が全くいなければ本物も偽物もない。一 定の質をもった作品がある程度出回り、同時にそれを味わえる人数があるレペルを越えるとそれが元々どうであったかは問われなくなり、場合によってはそこから別の本物が出てくる。私がつきあっている非線形現象の多くもその詳細を見れば、結構複雑であり、蛇口からしたたり落ちるしずくひとつをとってみても、液体によっては、すう一と単調に落ちているわけではなく、自己相似という入れ子構造をもつことがわかっている。散逸構造の雛型としてよく出されるBZ反応という化学パターンもその詳細なプロセスは何百という過程をへており、本当のところは本職の化学屋さんにも明らかではないらしい。それでも簡約化(縮約)というプロセスを経て、もっともらしいモデル方程式が提出され、実際それが単に定性的のみならず、定量的にも結構いいとなると、現象の予測にも使われたりする。さらに面白いことは多種多様な現象、むろんそれらは微細なメカニズムは全く異なるにも拘らず、最終的に簡約された形に大いに共通性が出てくることである。この簡約化は絵画というより、ジャコメッティの作品のような彫刻に近いように思われる。不要なものは取り去り、残すぺきところは切り詰める。ここで見過ごされてはならない事が2点ある。まず本物とはなにか?もとの動かしがたい現実としての現象と、極端に削られこれ以上単純化できないある(数理的)実体。どちらが本物という議論は楽しいが、あまり意味はないだろう。どちらも本物といえる。次にそのふたつの本物の間によこたわるおびただしい数の偽物である。ものは言いようと捉えられると困るのであるが、ふたつの本物を支えているのはこれら偽物なのである。というよりこれらがなければ本物は色褪せた看板でしかない。通常の数学の営みは後者の数理的実体を追い求め、その中で閉じたものと見なされ、贋作製作およびそれに伴う本物へ至る泥臭い道はしばしば見落とされてしまう。しかしいい偽物は積極的に認める必要があるし、その製作は大いに奨励されるぺきであろう。多くの人が鑑賞に足る偽物はもう偽物ではなくなるのだから。

 

閾値としての 1.5°C

2021年11月10日

現在グラスゴーでCOP26が開催されている.大国の著名な人々による演説と共に,現在 climate crisis に直面している under represented countries の代表者によるスピーチはより説得力があり,大国がとるべきaction への強い動機付けになっている.例えばBarbados首相Mia Mottley氏の speechは次にある.https://www.youtube.com/watch?v=PN6THYZ4ngM 

She said 1.5 °C means survival for Barbados, and 2 °C means a death sentence. “

ピタゴラスイッチ-その2-

2021年10月20日

きわどい綱渡りのからくりを組んだ連鎖型の仕掛けは前に述べたルーフ・ゴールドバーグマシーンと言われるが,それは現代社会のインフラ全般と共通する.システムが高度化すれば,一部が破壊されたときの損害は極めて広範囲に及ぶ.道路,鉄道,ATM,断水,停電,医療,運輸 いずれをとってもごく一部の損傷は全体に及ぶ.某銀行のネットワークシステムも例外ではない.問題はそれを根本からやり直すのは膨大な時間とエネルギーを費やさねばならないことだ.よってとりあえずのパッチを当てることで対処することとなる.しかしこの先送りは次のより甚大な被害の原因ともなりうるのは明らかである.可能ならば
1.最初の設計には十分な時間と広い視点からの検討が不可欠.
2.誤りや,故障は小さい内に,即修正する.
3.常に全体の動きを見ること.
とできれば理想であるが,そこまで待てないのである.これらは「失敗学」の教訓とも共通する.2013年に明治大学の現象数理学コロキウムで「待てない社会と忘れられたスケール」という題目でしゃべらせていただいたことを思い出す.http://www.mims.meiji.ac.jp/seminars/colloquium/files/colloquium001.pdf
さてピタゴラスイッチにおいて,どこか一カ所でも壊れれば,ビー玉はうまく進まない.しかしそこをこうすれば 切り抜けられますよという例も面白いだろう.実際そのヒントは既に満載である.抜け道,隠れ道,むだ道,仕掛け道,なんでもよいが,それにより被害が伝播しなくなる.

ピタゴラスイッチ -その1-

2021年10月19日

ピタゴラスイッチとルーフ・ゴールドバーグマシーン

黒玉軍団に捕らわれたビー玉兄弟を救出する仕掛けは何度見ても面白い.007 の映画に近いワクワク感がある.気になる方はNHKの「ピタゴラスイッチ」をご覧下さい.気に入っているのは,使っている紅茶の缶やラベルの破片などに作成者の日常の好みが反映しており,同じものが好みなのかな,など別の想像をして楽しむことができる点である.精巧な部品をほとんど使わず周りのものをそれとなく活躍させているのが親しみをわかせる.むろん多くの trial and error を繰り返されているのであろうが,実はそれを大いに楽しんでやっているのではと想像する.

手の込んだからくりを組んだ連鎖型の仕掛けはルーフ・ゴールドバーグマシーンと呼ばれるようであるが,それはあることがらのメタファーとして結構面白いのではないかと考えている.それについてはまた後日書いてみたいと思う.

Under one roof

2021年10月17日

Under one roof といっても雨宿りではない.半年近く前になるが,WPI-Forum の記事にするので,AIMRでの数学と材料科学者とのコラボのインタビューをしたいと西山さんから連絡がきた.藪浩さんとの共同研究について語ってもらえませんか,というご要望であった.詳細は末尾のサイトを眺めていただければ幸いであるが,私は結構インタビューそのものを楽しませてもらった.リモートではあったが,酵素役のインタビュワーの方の自然な合いの手がうまいというか,ついしゃべってしまうのである.もう少し正確に言うと,しゃべりたいトリガーとなる種を蒔いてくれるという感じだろうか.AIMRは東北大にある材料科学の研究所であるが,そこでは異分野連携を推進している.全く異なる分野の人がおしゃべりをして,さらに共同研究に至るのは並大抵ではない.普通はうまくいかない.そのためのお膳立てとして,いくつかできることがある.一つは物理的に顔を合わせる頻度を高くする.これが under one roof なのであるが,これだけでは不十分である.相手のことを聞きたくなる,もしくは自分が話したくなるような何かシグナルを互いに(少なくとも一方が)出さないと何も始まらない.突然の雨に偶然に飛び込んだ屋根の下では,「やあ,急に降り出しましたね」と会話が自然に始まることが多いのはなぜなのか考えてみるのも面白い.やはり雨宿りになってしまった.

前編:https://wpi-forum.jsps.go.jp/sousei/vol1-1/

後編:https://wpi-forum.jsps.go.jp/sousei/vol1-2/

目次:https://wpi-forum.jsps.go.jp/mission2/

贋作事始め-その1-

2021年10月15日

20世紀最後の年,1999年から始まった特定領域研究「非線形非平衡現象を支配する特異性の解明」は今は亡き三村昌泰さんが代表者であった.数学者のみならず非線形物理の蔵本さん,甲斐さん,吉川さん,太田さんなど多士済々なメンバーであった.私自身が数理モデルについて,あれこれ考え始めたのは,1995年に北大の電子科学研究所に移り,周りの実験家さんとの交流が頻繁になったのが一つのきっかけであった,と書けばもっともらしく聞こえるが,本当のところは,三杉隆敏さんの「真贋ものがたり」(岩波新書)を読んで考えさせられたのが大きかった.ともあれ,しばらくして始まったこの特定領域研究はその議論を闘わせるのに格好の場であった.そのニュースレター第3号の巻頭言に書いた一文は,今から思えば三杉さんの枠を借りて書いたものに過ぎない.

科学史の必要性

2021年10月12日

日経朝刊に中山迅氏による「「科学とは」授業で欠落」という記事でいくつか思い出したことがある.科学はなぜ必要か?という問いに,それは「騙されないために」と言い切ったのは,冨永靖徳氏であったと記憶しているが,科学は一部の学者に任せておけばよいということではなく,生きていくための必需品としての位置付けが必要だろうという内容が含まれていた.昔フランスで,友人が講義があるので,2時間ほど待っていてくれ,ということで,偶然覗いた教室でやっていたのが,科学者(多分フーリエだった)のレターのやりとりを題材に科学史を勉強しているクラスだった.数学や物理学専攻の学生対象ではなく,文系の学生だったと記憶している.彼らの感覚はより身近なものとして隣にある科学というものに近いかもしれない.日本にも寺田寅彦はじめ,それに適した題材が結構あるだろう.ただその時間的蓄積は短く,科学史と言えば西洋科学史となってしまうのが残念である.

寓意と隠喩

2021年10月7日

小説,詩,絵画などで,憂鬱,信仰,愛などの抽象的概念を具体的な事物あるいはそれらの相互関係により間接的に示唆し,読む人,見る人に理解させるというのが寓意である.一方,隠喩は暗喩とも呼ばれるようであるが,全体を全体で表象するような 修辞(=表現のシステム)である.具体的には王をライオンで表象するようなものである.ところで喩という漢字は,白川静「字通」によれば,その右部分はものを移す意があり,そこから「他に喩えて,ことを諭すこと」を喩という.それでは数理モデルというものは,隠喩に相当すると考えてよいだろうか.現象の時空間でのある側面を切り出している以上,隠喩にはなり得ないとも言えるが,本質的部分をうまく取り出していると見えるモデルもある.計算機の発達で,直喩に近いモデルも増えてきた.あるいは直接モデル化しているわけではないが,それこそ寓意的にうまく捉えているものもある.膨大なデータで良く訓練されたニューラルネットワークモデルはどのように考えれば良いだろうか.喩えの立場からモデルを眺めてみるのも面白い.

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