”ひと”か”もの”か

70年代に中央公論社の「自然」という雑誌にロゲルギストエッセイというリレー連載があり,その中に「文科と理科」というLogergist K2による記事がある(1975年3月号).いわゆる文科的人間と理科的人間が「ある」として,自然科学の教え方を同じようにやってもうまくいかないのではというところから文科と理科の比較論が始まる.理科を出て哲学者になったり,市長になったりするものもいるので,例外は挙げればきりがない.しかしあえてそれを1次元スペクトルにならべると,一方の端に詩人がいて,他方は数学者,真ん中に経済学者や医者などとかなり強引な分類がなされた後(この乱暴な分類は後でL氏から大きな修正を余儀なくされることになるが),理科の連中は「もの」に興味があり,文科は「人間」に関心があるのではという当座の仮説に落ち着く.つまり文科の世界は目に見えない観念や感情を伝え合う言葉の世界,それが織りなす世界,理科は目で見て,手でさわることのできる「もの」の世界だ.他の人が書いた本だけを材料にして,<研究>ができ,学問が成り立つ<ことばの世界>というのは不思議な世界だね,と実験科学者は言う.ある仮説なりを立てて,うまくいくかどうか trial and error で試行錯誤するのは理科の人間にとっては自然な方法である.一方文科の人(法科)から,そんな無節操なことはできない,いったん方針を決めたら最後まで貫かなければならない..と言われる.やり直しが効かない生身の人間相手にそんなことはできない.ドクトリン(教条主義)が採用され,やって見よう主義は却下となる.ここまでの議論に対し,別のL教授(文学者)から痛烈な批判が入るがここでは割愛する.最後にまとめとして,最初の課題:文科の学生にどのような自然科学教育が可能かについて,いわゆる basic science の体系(の一部)を教えようとするのではなく,introduction to science に徹することだろうとなった.とくに「ものを見せて,新鮮な驚きを味わわせること,推理によって意外な,しかし揺るぎない結論が生まれる過程を見せることで驚きを味わうこと」が必要だろう.これにより体系的な自然科学というものは教えることはできないとしても,自然科学という人間精神の一つの活動への門戸を開き,自然科学には<絶対に正しい理論>はなく(数学者の方からは反論が出るであろうが),到達できるのはたかだか<よりよい近似>だということー教条主義のアンチテーゼーをわかってもらえれば十分ではないかという当面の結論にたどり着く.
コモンズの数学ということで私自身も,数理モデルなるものを用いて,(自然科学者でない方々に)何を理解してもらえればよいだろうか,それにより世界の現状を見る目がどのように変わるだろうかを考えている.新鮮な驚きを与えることは十分に可能である.問題は後半の長い連鎖の過程を経て生まれる揺るぎない結論にたどり着く過程を味わい,そして自分毎としてのそれを取り込んで行くプロセスをどのようにお手伝いできるかが簡単ではない.そこでは文科的発想と方法論も必要になってくるだろう.

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